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日本・中国・西洋から探究した技芸の要

調和への技法で訓練された精神と、世界の変化との、差異をとらえる。
様々な物事の未知の相互関係や発展性を見い出すため、自らを柔弱におく。
目指す物事が達成されると無条件に信じ、可能の根拠を積み上げていく。

もうすこし詳しい説明はこちら
http://glasperlenspiel.blog.so-net.ne.jp/2012-02-26

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ツイッターから:シャープ、持ち直してほしい。:動的な情報と静的な情報と。 [fromまいツイート]

以下、私のツイート※から。
※ @kyoGBGwizard

シャープ、持ち直してほしい。

シャープの電子辞書、愛用品。
インターネットで広範な情報を手に入れられるけど、
その確かさを検証するには電子辞書が有益。

日本語で意味を確実に伝達してもらえるためにも、
日本の企業で、モバイル機器老舗※のシャープにがんばってほしい。

※ザウルスなど。コンピューターマニアなら詳しいよね。

安定した(静的な:スタティックな)情報を用いると、
動的な(ダイナミックな)情報の「何が動いているのか」を検証できるのだよね。

最新で様々なソースからできた情報は貴重だけど、
では「新しい・別の・視点はなにか」を観察するにも、
豊富な情報量の電子辞書が私には貴重。※

※何かの衛星(など)を観察するのに、
 その衛星に接近する観測衛星と、
 地上あるいは静止軌道上にある観測設備の、
 二つのデータを比較して推理・推論することに例えて。
 
 
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不完全な実在者と、より完全な実在者、その試み。 [fromまいツイート]

男性と女性は胎児の途中の段階まで同じ姿。
後、男性になる胎児の脳に男性ホルモンが大量に分泌される。
脳は変成を始め、生まれた時に、女性に比べ、
男性は不完全体で生まれる。

男性は自分の不完全さを無自覚に感じ、
外にある何かを実現することで、
自分の不完全さを埋め合わせようとする。

男性にとって、その外にある何かは、
不完全さを埋め合わせる理由であり、自分が存在できる理由。
なので、その外にある何かのために死ぬことは、
自分自身を生きることと一致する、という、
一見矛盾した行動を選択することがある。
職人などの仕事への専念と日常の酔狂などに、
時おり観察される。

胎児期における脳の変成という作用を受けずに生まれる女性は、
実在者としては男性より完全に近い。
そして、完全に近いゆえ、
世界と自分との関係を男性より、より密接に感じ、
男性が訓練で身につける「信念の力」を早期から現し始める。

もっとも、信念の力も、実現の力も、
テクノロジーと法など人文的効果が高まった現代では、
補助の可能なものとも考えられる。
新しい時代が来て良いのかもしれない。

信念の力は求心力であり、
ある求心力に対し、他の求心力は、突破力に該当する。
突破力から求心力が生まれるのはマレ。
なので、時代が変革される時には女性の意識が変わる。
男性は元々変革を求める実在者なので。
話しが前後したけど。


※医学的な見解ではありません。私が個人で書籍を探訪し、
 経験上、事象と一致すると考えられたものをまとめました。


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龍の勁。他。 [私のツイートから] [fromまいツイート]

密閉型ヘッドホンでCDを聴くか、
256kbpsで録音したiPodの音楽を開放型イヤホンで聴くか、
iPadでiTunesインターネットラジオを聴くか・・・。
まずはミニコンポでCDを聴こう。 ^^

好みの音楽をiPodで切り替えながら聴くのも、
聴き慣れた音楽をCD+良いスピーカーで聴くのも、
音楽の楽しみと思うけど、
最初からコンピューターで録音した音は、コンポで再生してもMP3以上になれない。
現在の一般的な技術では。

CDが登場して数年の当時でさえ、
デジタル⇔アナログのデータ変換のロジックについて語られた。
オンオフの切り替えのデジタルデータと元の波型のアナログデータの「音の補完」は、
三角関数を利用して数値を得られる複数の波の組み合わせを扱う
フーリエ級数のデバイスへの実装による。

ノコギリ波のバイオリン、脈動する弦のピアノ、
様々な波形を的確に再現するロジックは高度になる。
しかし、高度に音源を再現するほど、
楽器としてのシンセサイザーは「つまらなくなった」。
アコースティックな楽器の音が「的確に一定に再現される楽器」は、
潜在意識下でも自然とつながっている人間には、
むしろ「退屈」な面を見せたのかもしれない。

「もし、あなたが勝ちたいと思う心の片隅で、ムリだと考えるなら、
 あなたは絶対勝てない。世の中を見てみろ、
 最後まで成功を願い続けた人だけが成功しているではないか。
 すべては『人の心』が決めるのだ。」
 -ナポレオン・ヒル-

今回のオリンピック、
日本選手から、「尊敬」という言葉が多く聞かれた。
相手への、審判への、観客への、他の競技の選手への。
それらが、競技の神聖さを通じて、人の崇高さを感じさせるな、
と強く感じさせられた。

試合を祝福することの大切さを、感じさせられた。

「勝つ」ことは、相手の弱みを見い出し、
そこを突き崩すことで得られることがある。
しかし、これは私の私見だけど、「試合」を祝福できることは、
その競技の普遍性を明らかにする「姿勢」であると思う。

勝たなければ評価されない。
普遍性がなければ、人の栄光は示されない。

創作などをおこなうべきなのだけど、勝手に心身が弛緩してくる。
心の深い部分が安心しているのだと思う。
睡眠時間がとても長くなっている。
人が喜ぶことが仕事なので、私個人が安心していることは、
中心的なことではないのだけれども。

今日、外出時に「でかんしょ」という看板に気づいた。
「でかんしょーでかんしょーぉで半年ゃ暮ーらーすー」の懐かしい歌の。
デカルト・カント・ショーペンハウエルの略だよね。
でも、この三人の哲学を半年で学ぶのは相当困難だよなー、と、ふと。

オーストラリアで長距離バスで移動した時に、
バス会社が地域の店などと提携していることが印象的だった。
航空会社とホテルなどは旅行代理店で結んでいそうだよね。
でも、パッケージになっていない旅の場合、何かあるかな?と思う。
飛行機は文化圏を超えて人を運ぶ。

異なった文化圏では、ホテルやレストランを探すだけで、
けっこう時間がかかる。
それが楽しい部分もあるけれども、旅の時間は貴重という面もある。
ミシュランはタイヤメーカーだけど、
タイヤ→旅→レストランガイドと進んだね。

中間の価格帯の情報って少ない印象。
少し高めだけど、その街の人しかしらない良いものがある、とか、
不快な思いをしなくて済む、とか。
高価な店は元から情報発信しているし、
安価な店なら地球の歩き方で情報が手に入るけど、
中間の価格帯の情報は・・・人によって好みが分かれる範囲か。

移動元(例えば日本)と移動先(例えばドバイ)のそれぞれに、
人の好み(動機)のカテゴリーのマッピングされたものがあって、
それを比較しながら好みの店を絞り込める、など。

以前、
車など日本の生産業について考えたことがあったのだけど、
グローバル化の時代、「世界文化部」って聞いたことないな、と。
他国の文化で、日本の生産物を考えてみる、
あるいは、他国への日本文化の発信について、など、
ユーザーには伝わってきていないと思う。

人がどうしても苦しい状態の時、
「〇〇をしなければならない」と行為を促すことが難しい。
しかし、「一つだけ〇〇はしてはならない」と
行為を限定的に制限することは行ないやすい。
過ちを犯してしまうことのある人の世界で、
「〇〇だけは聖域としよう」と決めることができる。
オリンピックなど。

人は(結果として、というのを含む)犯罪をおかしてしまうことがあるし、
(防衛的であれ)戦争がおこってしまうことがある。
それでも、どのような時でも、人が分かり合える場所が一つだけある、
という希望を求めるなら、その価値を、
その場所に参加する人は、知っていなければならない。

「それが在ることが自然なこと」と思えることが損なわれると、
それを「損失」という視点から感じられることがある。
日本だと健康や安全など。
「在るのが自然なこと」という以外の視点から「考える訓練」をすることで、
解決策が見い出されることがある。
直視しにくいテーマになることが多いけど。

快楽は必ず有限になる。
その快楽を感じる肉体が必ず有限だから。

快楽以外の無限の広がりに自分を感じることができるなら、
それは無限の豊かさと関係する。
その無限の豊かさと比較する時には、
快楽の有限の豊かさも正しく理解・把握することができる。

例えば、
深い哲理を実践によって自己と同一にしている親子がいるとする。
しかし、時には親は子に饅頭の一つを与えたいと思うだろう。
そして、その饅頭の真の意味は深い哲理によって把握され、
他の人より多い少ないとは比較されない。

おー。お宝っ!
報道ステーションを見ていて、
オリンピック選手達の練習している場所が映像で紹介されている。
「普段何を見ているのか」を拾えるかもしれない。
オリンピックの試合の録画をあまりしていなかったな、と、
録画をまわしていたのは良かった。^^
試合自体は、図書館で観られるかも。

「鬼ごっこの練習」から、「全方位の意識」、かな?
いや、私が世界トップの方々のお話しにその分野で
何か「意見」はできないけれども。
中国拳法で思い出されるのは、「龍の勁」かな。
八卦掌で端的に表現されるけれども。
練習風景を見ると、
「相手側に引力がある」かのような身体の動きが感じられた。

試合を見ると、そのあまりの速さに打突が「軽く」見えるけど、
あれは相当「重さ」があると想像される。

八卦掌:私が観たDVDのなかでは、日本人では、
程派八卦掌の本田唯人氏の演武が、勁道を学ぶことについては、
とてもインパクトがあった。


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アリストテレスの自然学: 東洋の技芸: 大航海時代と、私はやれると思っている、と。 [fromまいツイート]

アリストテレスは自然学で、
人が造った物は操作をやめると止まるか壊れるけれども、
自然が生み出した物は自ら変化し、
その変化に関わることで人は学んでいけるものがある、
と主張していた。

東洋の技芸と類似点がある。

けれども、
全ての叡智は教会が神の意向と照らし合わせる、
とした時期に、
アリストテレスのこの考えは縮小した。

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※いまも、なぜか、寝ている間に傷が出来てて・・・。

戦争の続いた時代に、教会の力は必要だったろう。
一方、錬金術師達が化学の原型を創りながら、
デカルトら哲学者が
「物に対する考え(合理主義)は神への信仰の心を邪魔しない」と、
思想的な挑戦をして、
科学の分野が教会から独立した。

ルネッサンスでは、ギリシャの芸術や人文学が復活した。

それらの人々は、決して教会と対立することなく、
王や貴族を説得して世界を変えていった。

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※中国拳法での鳳眼拳(鳳凰の瞳の拳: Fist of Eyes of Phoenix)

では、
アリストテレスが気づいた「自然との関わり方の技法」は完全に消えたろうか?
期間的な歴史の開きが大きく、資料があまり残っていないようなので、
十分に確信はできていないのだけれど、系列が似ているものがある。

「プラグマティズム(実用主義)」。
東洋のものとは違いが多いけれど。

アリストテレスの思想が復活するため、
大航海時代が必要だったとすると、壮大というか(、皮肉というか)、と思う。
アメリカね。

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※鳳眼拳:ボールペンを握りながら
 (Fist of Eyes of Phoenix: While grasping a ball-point pen.)

理解も誤解もあるけど、
また、私の人生の主題についてとしてだけれども、
精一杯の活動を、可能なだけの誠意で伝えれば、世界に伝わりうる、
と私が思えるのは、
そうした基礎的な調査の知識が、世界の人々の反応から検証されうるか、
いつも意識してきたから。

私は、いまも、出来ると思っている。
 
 
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「教える」のではなく「開く」、へ。 ~私のツイッターでのツイートから [fromまいツイート]

そう言えば、東京で外を歩いている時など、
見知らぬ人ににらみつけられることがたまーにある。
この間、東京に住んでしばらくたつ人に聞いてみたら、
教えてくれた。「ゲイだ」ということ。

冷静に考えてみると、何らかの嫌がらせをしてくる人と、
自発的にサポートしようとしてくれる人と、全体に対する割合が同じくらいと、
気づく。
「変わるまい」とする人と、「変わろう」とする人とが、
おおむね同じ割合というのは、実はとても健康な状態。

今朝、ネットでニュース記事を読んでいて、
福島県の子供の尿からセシウムが検出されたことと、
福島第一原発四号機の核燃料プールの冷却装置の電源が
停止した記事を読んで、憂鬱が加速。

もしこれ以上の被害があれば、
天皇陛下は関西に移り住んだ方が良いのでは、
という国民の声も多くなるかもしれない。
すると、東京は日本の首都ではなくなるのかな?
(まだ京都から東京への遷都は明言されていない。
 一方、昭和天皇は東京府東京市に、
 東京都と「都」の名称を与えた。)

奇跡的に時間の尺度の長い日本の歴史は、
意識して考えないと感じられにくい。
第二次世界大戦で日本が敗戦した直後にイギリスが制作した資料では、
エリザベス女王とローマ法王と日本の天皇は同格になっている。
歴史の長さから、ローマ法王と天皇陛下がお会いになる時は、
ローマ法王が先に挨拶するそう。

「変わるまい」と「変わろう」という話しに戻ると、今回は、
「いずれにせよ変わらざるをえない」なのかもしれない。

今回は災害なので比較しにくいけれども、
昨年の東日本大震災は、江戸時代の黒船来航と同レベルのインパクトと思う。
何割くらいの人かは分からないけれども、
「別の形で日本全体に報われる」と思えるなら、
東北の人々にも痛みを和らげる何かになるかもしれないと、
発言に際して期待しつつ。

ネガティブ・インパクトなのだけど、
そのネガティブな領域に「何があるべきか」が、
「あるべきものが無かったこと」が、
一般の人々にも思い浮かびやすいインパクトではないだろうか?
 
 
第一図式法はガラス玉遊戯を現実化するものであるゆえ、
内容はガラス玉遊戯の訓練課程になっている。
一方で、技芸的な意識は日本人に社会的遺伝として伝わっている。
なので、一般の人々の技芸的素養について付加価値となるよう、
ガラス玉遊戯の訓練課程を逆算した何かを提供できると良い。

「出発点を相手に置く」ことができれば正解のはず。

・・・シチュエーションの解明・・・フィールドワークの可能・・・あぁ、できる。

まとめた。けど、一晩寝かせてみる。軽く触れると、「教える」のではなく「開く」。

カツオのたたきと、カンパチの握りと、中華巻きで昼食にした。♪( ´θ`)ノ

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流れが生まれ出るという予感にくつろいでいる。なう

幼いころから、困難のある時、助力してくれる人が現れた。
今回の、人々による助力は間接的で、いままでと決定的に違ったのは、
私自身が最も力強かった人であったこと。

時事通信によると、
福島第一原発四号機の燃料棒のプールの冷却装置の運転が
再開されたそうです。
 
 
私のツイッターのアカウント
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2012年5月16日の私のツイートから [fromまいツイート]

ツイッターでのツイートの文字数が多くなったので、
So-netブログの更新もあり、まとめました。
 
 
ドイツのガイエンホーフェンにあるヘッセ博物館に行きたいという衝動。

ガラス玉遊戯の最初の図式法が出来た時にヨーロッパに行った時、
博物館の人に許可を得て写真を撮ったのだけれども、
フラッシュをたかなかったので写っていないものが多い。
自動設定のカメラをミュンヘンで失くした。

ヘッセが所有していたインドの物品のコレクションを思い出す。
小説ガラス玉遊戯の前に書かれた作品は「東方巡礼」、
後に書かれた作品は「メルヒェン」とエッセイ集の「幸福論」。

小説ガラス玉遊戯のなかで、
ガラス玉遊戯者達の集まるカスターリエン(教育州)は
設立された時の使命から外れはじめていて「変化しない世界」として
描かれている。
ヘッセはその正当性の検証を教会との比較で行ない、
その危機を「世俗から忘れられていくこと」を描いて示した。

そして、小説は終盤に向かって、
精神的に訓練されていない世俗に新しい生命力が現れることと、
世俗の生活にある葛藤が人格的に優れた人々の精神を摩耗させていることが、
主人公の精神的な目的意識を活性化していくことを描き始める。
そしてそれが、ガラス玉遊戯の運命と比較されていく。

教会に見られた数世紀を超える生活で得られた「落ち着き」は
神への信頼にもとづくものであり、
ガラス玉遊戯には「サクラメント(キリストによって定められた恩恵を受ける手段。
聖礼典。-広辞苑より-)」に該当するものは現れないだろう、
という内容の記述がある。

小説の進行において描かれていることで、“始まりの魔法”がありうるにしても。
 
 
疲労が大きいのですが、満足も大きい日々をすごしています。(^^)
 
 
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擬人化に応じる動詞と、本来の能力の活性化に関する、ある仮説。 [fromまいツイート]

2012年3月15日の私のツイートから。


日本語って、主語を省略するだけでなく、
物事に擬人化が成立する含みが動詞にあって、
語られる単語に複雑にコンテクストが反映される仕組みに
なってるので、翻訳に手間取るのだと、
個人的だけれども、考えられた。

若い人がツイッターに熱中すると
神話的コンテクストがしだいに現れてくるのも、
言語の構造と要素に太古の大和言葉が残っているからと
想像する。
言語学の研究からは、
構文をつくるため最も重要とされる日本語の動詞は、
大和言葉の時代とほぼ同じとされている。

すると、一つの仮説だけど、
「クール・ジャパン」と称される
サブカルチャーで活躍する人は、
高度な能力を身につけた人というより、
本来の能力を活性化した人、
ととらえて、秋葉原を思い出してみると、
肯定的な印象は多い。

予定していなかったところに、すごい集中力を使った。
もちろん、面白かった。
けれど、昨晩の睡眠で疲労が抜けきっていない状態だったので、
エネルギーの残量がゼロだ。


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2012年3月12日の私のツイッターでのツイートから(一部書き直しあり) [fromまいツイート]

ツイッターでの私のツイートから。
 
 
以前住んでいた北海道は、
日本各地から人が集まった異文化共同生活と当時の開拓生活での調和での必要性と、
北海道開発費が生活の下支えをしたのとから、社会主義的な感覚が進んだことと、
私の住んでいた札幌は顕著だったけど、
東京との経済についての接続による資本主義的な側面とが、あった。

私の祖父は自民党の市議会議員で、
札幌と東京との経済的な接続に初期に取り組んだ闘争的な人だった。
様々な事情があり、私は人生で2度しか会った記憶が無いのだけど。
道議会議員を飛び級して、中央政界に進む話しがあるなか、
肝臓病で他界した。

祖父に馴染めなかった幼いころの記憶と、
東京を見て祖父の仕事を想像するところとが、同時にある。
と同時に、私のありったけの熱意で活動しても、
どこかに「通っていく道」がある実感のある東京には、
私の「素」で「楽しいな」と感じるところがある。

長い尺度で見てみると、進むべき先に向かって進んでいるのだな、
という不思議な感覚がある。
その都度、「なんて苦しい事が続くのだろう?」と感じていたけれども、
技法の発展は、その困難を無効にしてきた。

もう少し言えば、
苦難より自分の意思の継続を選択した私自身と、
いまこの現実は釣り合っているのではないか?
運命の正当性を私は定義できないけど、
「私は選択を続けた」というのは私の現実の歴史だ。
いつも、失うものより、目指すものの方が、大きかった。
私にとっては、それが正しい答えだった。

いま、
テレビ朝日でマラソン選手が「いつも誰かが助けてくれた」と話されてたけど、
人は努力して、有限な命のなかで、
その努力の意味が普遍的であれ、と思うもの。
そうすると、
かつて自分が通った道のりと同じ道のりに命がけで取り組む人に、
その普遍性の継続を見たくなるものと思う。

でも、命がけで生きた自分を、後の人に見ようとする時、
その後進の「命がけ」が本物かどうか、「実に厳しい方法」で確認する。
その「命がけ」が正当であれば問題でないけど、違ったら、
罰ゲームは実に厳しい。

どちらを選択しても、「実に厳しい」。
しかし、方向はまったく異なっているのが、普通。
なら、まっとうな厳しさの方が良いのではないか?
そう思う。

テレビと言えば、今日は、久しぶりにテレビをゆっくり見たのだけど、
東京ローカルのテレビ局のTokyoMXで、少し馴染んだ話題が出た。

「なぜ日本では警備員が多いのか?」
私は警備の仕事をしたことがある。
私の現出していくものが職務発明的に言われることを避けるため、
関係の遠い仕事をしていたから、ということもある。

一方、「なんでも、取り組んだことからは、学べるだけ学べ。」という私の勉強では、

1.警備員の仕事は、権限なしに利害関係の対立する人々の間に入る性質が、ある。
2.日本社会は「企業と周囲の人々との境界をゆるやかにする」ことを求める。そのひとつ。

昔、警備の現場で、田代まさしさんと、山口美江さんの、
お二人の控室の前の担当になったことがあった。

お二人がお見えになると、私は敬礼をしたのだけど、

田代まさしさんは楽しそうに、背面にのけぞって敬礼を返してくれて、
笑顔で「今日はガードマン通りだな」と。

山口美江さんは、通るたび、すーーっと私のそばに歩いて近づいてきて、
優しい笑顔を向けてくださると、廊下の反対側にある控室にふりかえって入っていった。

警備員には守秘義務があるのだけど、この二つの話しは「秘密」ではないのだと思う。

ところで、海外では「セカンドネーム」を用いるのが普通である。
教会からセカンドネームをさずけられる場合もあるし、
血統を示すために祖父母や尊敬する人の名前を用いる場合もある。

日本ではセカンドネームを用いる習慣はないけれども、
セカンドネームを用いて良いよう、法律が整備されている。

公的な書類では、苗字も名前も、かえていけないけれども、
それ以外では、名前は日常的に用いている、自分で決めたもので良い、
と、弁護士からは説明された。

また、ペンネームや雅号も用いて良いとのこと。例えば、雅号だと、

漱石 夏目 金之助 (夏目漱石)とか、鴎外 森 林太郎 (森鴎外)など。

雅号は、英訳すると、「ペンネーム」あるいは「エイリアス」である。
 
 
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能力が育つことと、可能性が表されることと、心象が接続されること。 [fromまいツイート]

以下、私のツイッターでのツイートからです。
 
 
ガラス玉遊戯は
理念に可能性における内的合目的性(美)を現す。
理念(超越的概念)は、例えば、愛・自由・不死。
美は複数の人々の心象の接続。

そして理念そのものは人が生まれながらに持っている
思考における能力。

能力が育つことと、可能性が表されることと、
心象が接続されること。
 
 
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2012年3月8日の私のツイッターでのツイートから [fromまいツイート]

私のツイッターでのツイートから、一部転載です。
 
 
今日のテーマに直接には関係しないのだけど、
数学のグラフ理論について調べていた。
路線図や電気回路やWWWの数学的把握に用いられる理論。
具体的にはマッチングについて調べていた。

ツイッターのようなSNSにも関係しているかもしれないね。グラフ理論。

ガラス玉遊戯の最初の図式法が出来てから8年ほど、
象徴を含む記号に触れる機会の多くなった後に、
町を歩いていると景色が記号の組み合わせで出来ているように感じた。
おそらく数学者も(この場合主観的な)似た経験をするのかもしれないと
その時に感じられた。

確かに、視覚が世界の像を見る働きをなしているのだけど、
大脳生理学では像をつくりだしているのは脳であると言うし、
哲学者カントは世界の姿で真に客観的必然性によりなるものは幾何学である、
と言っている。

人間が法則で解明しうる現象は、
人間が解明する以前から世界に存在している。
ニュートンが発見しなくても引力は存在していた。
それでも、普段扱っているものでも、
明確にされるまで存在が意識されないのが、
人の理性の性質なのかもしれない。

何について訓練するかが明確である範囲で、訓練により人の理性は伸ばせる。
一方、明確になっている範囲の外にも、理性の伸びうる領域がある。
実の認識に応じる場(フィールド)はあるが、虚の認識にも応じる場がありうる。
後者の場合、発見されるまでは可能性として。

虚への取り組みは、例証として、
中国拳法では「陰を高める」と表現されることがある。
 
 
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【まだ思考されていない物事に応じる過程】

人が思考しうる物事のなかには、
まだ思考されていない物事があります。

もし全てを思考し終えている存在者があるとすれば、
神のみです。

芸術も、
思考されうる未知の物事に応じる方法の一つです。

技芸は、
美または調和のモデルを用いて自らの活動を体系的に把握する、
姿勢であり、過程です。

2012年3月30日
響 西庄 庸勝

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